1年前、2年前と記憶を遡っていくと、段々思い出すのが困難になる。 あのころ考えていたこと・感じていたこと。 僕の場合は物心がつく前、と言うのだろうか、十歳より前の記憶はひどくあやふやで、 そういったことが思い出せなくなる。 でも、9歳の夏。 夢か現実かは知らないけれど、忘れられない日々がある。『蛍』 カズユキ「いなかのじいちゃんち」は、父の実家で、毎年盆と正月に遊びに行っていた。 正月は近くの神社にお参りに行って、おせちを食べて、お年玉を貰って、 イトコと遊んで、すぐ帰るという印象だった。 それに比べれば、夏休みのお盆は長い。 起きたらすぐに公園でラジオ体操をして、近くの家のお兄ちゃんお姉ちゃんと暗くなるまで遊んだ。 大変失礼なことだとは思うが、顔も名前も今ではもう思い出せないけれど、楽しいことを色々教えてもらった。 階段を自転車で降りて、派手に擦り剥いて大泣きしながら帰ったことも、今となっては良い思い出だったりする。 でも、そんな子供にとってみれば大きな事件でも覚えているのは断片的で、あの日々に比べたら微かな記憶だ。 9歳の盆休み、毎年と同じ様にじいちゃんちに行った。 到着して2・3日後、近くで夏祭りがあって祖父、両親と五つ下の妹とで花火を見た。 家から出ると、ちょっと木に隠れてしまう部分もあったが、家族でわいわい喋りながら見るには十分だった。 ただ、じいちゃんちの近くには墓場があって、しかもその隣の竹やぶは風が吹くとガサガサ言って、 花火の音が止んだ後そこは夜でなくてもなかなかに怖かった。 なのでそれまでは花火を見たらさっさと家に入っていたが、 その年の花火大会の後は、直後にホタルを見つけた。 初めて見たホタルに興奮して追いかけたが、墓場の隣の竹やぶに消えていったのを見て諦めた。 家に帰ろうかな、と目線をそらすと、小川の近くに白いワンピースを着た女の子が一人立っていた。 「美奈お姉ちゃん?」 背丈が似ていたので、近所で良く遊ぶその子かと思って呼んでみた。 僕から見て斜めに立っていた女の子は、上半身だけこちらを向いた。 女の子は美奈お姉ちゃんではなかった。 今なら平謝りをしてすぐに立ち去るだろうが、その頃は小さかったので 「お姉ちゃんだれ?」 と、一見2・3歳上に見える女の子に問い掛けた。 「…あき」 ゆっくり応えた。 「あきお姉ちゃん?」 そう聞くと無表情でこくりとうなずいた。 「ホタル見た?ぼくはじめて見たんだ!カンドーした!」 そうまくし立てるとちょっとだけ笑って 「…このへんは、川があるから」 少し間をおいて、 「ホタルの幼虫は川で育つからね」 ゆっくり教えてくれた。 そのあと小さく、あ・と呟いて僕の足元を指したので、見てみるとホタルが2匹草むらで居た。 「ホタル!」 しゃがみ込んで近くで見ようとしたら、ホタルは気付いてあきお姉ちゃんの方へ飛んでいってしまった。 あきお姉ちゃんの横をすり抜けて、また竹やぶに入ってしまった頃、 「悠ちゃん、もうおじいちゃんち帰るわよ?」 家のほうから母に呼ばれて、立ち上がった。 「バイバイ、あきお姉ちゃん!」 そう言って手を振ると、あきお姉ちゃんも小さく手を振った。 次の日、ラジオ体操に行く時に見たら居なかった。 お兄ちゃん達と遊んで、お昼を食べに帰る時も居なかった。 食べてすぐ遊びに行く時も居なかった。 6時を過ぎて、家に帰る時も居なかった。 何回も見に行ったのに会えなくて、少し落ち込んだ。 7時に夕食を食べ終わって、妹に 「ホタル見に行こう!竹やぶの前」 と誘ったら、思い切り嫌そうな顔をされた。 「おはかのとなり?」 「うん」 「ヤダ」 それでも強引に引っ張っていこうとすると、泣かれた。 親に叱られて、フンマンやるかたない思いになった。 これだから女は嫌なんだ、とかぶつぶつ言いながら一人で外へ出て行くと、あきお姉ちゃんが居た。 「あきお姉ちゃん!」 駆け寄りながら、女と言ってもあきお姉ちゃんは別、と修正をした。 あきお姉ちゃんはふわりと笑っていた。 軽く息を弾ませて、あきお姉ちゃんを見上げた。 何を話すか全然考えていなかったので 「今日哲也お兄ちゃんと釣り行ったんだ」 「今度はあきお姉ちゃんも行こうね!」 と言うと、 「…うん」 と笑いながらうなずいてくれた。 7時を回った程度ではまだ明るくて、ホタルは全然見えない。 僕たちはしばらく、話しながら小川の隣を散歩した。 「あきお姉ちゃんのお家ってどこ?」 今日何回も探したけど見当たらなかったことを思い出して聞いてみた。 あきお姉ちゃんは静かに指差した。 あきお姉ちゃんの指したのは竹やぶとお墓のほうで、でも竹やぶに住んでいるという事は無いから、 向こう側にあるものを思い出した。 お墓と竹やぶの向こう側はしばらく田んぼが続いて、ぽつぽつと家が数軒建っている。 あぜ道を使ってまっすぐ来ても、歩いて十五分、当時の僕の足なら二十分は掛かった。 「歩いてくるの、たいへんだね。」 と聞くと 「?」 とあきお姉ちゃんは少し首をかしげた。 僕は勝手に家族の話やこっちでしたこと、見たこと、思いつくだけ全部話した。 あきお姉ちゃんは、たまにくすくす笑いながら、そしてたまに相槌を打ちながら、静かに聞いてくれた。 あきお姉ちゃんが楽しそうだと僕も何だかやたらに楽しくて、あっという間に暗くなってしまった。 そうして、僕は不思議なことに気がついた。 辺りがすっかり暗くなっても、かろうじて見えるのは目が慣れているからだけど、 あきお姉ちゃんは何故か驚くほどはっきり見える。 自分の手を見ても、ぼんやり形は分かるけれど生命線なんかの、 昼間は誰だって見える手相なんかもさっぱり見えない。 なのに、あきお姉ちゃんは真っ白に浮かび上がって見える。 肩より少し下まで伸ばした髪や、サンダルを履いた足元まではっきりと分かるのだ。 その夜は三日月で、とてもじゃないけど明るいとは言いがたかった。 聞いてみたいけれどなんと言って良いか分からず押し黙っていると、昨晩のようにあきお姉ちゃんは指差した。 「…居た!ホタル!」 ホタルを見つけて、昨日の教訓を忘れてまたしゃがみこんだら、やっぱり川の向こう側へ飛んでいってしまった。 なかなか見つけさせてもくれないくせにさっさと飛んでいくホタルを少し恨めしく見て、 次に苦笑しているあきお姉ちゃんを見上げて 「…どうやって見つけてるの?」 と聞いた。 口に手を当ててうーんと少し考えて 「ホタルは電気みたいにピカピカ光らないから…」 そう言って僕の頭をひんやりやわらかい両手で挟んだ。 母以外の女の人からそんな事をされたのは初めてだったので、落ち着かなくて そわそわしていたら、こら・と怒られた。 「じっとして」 観念して前を見ていたら、目の端でゆっくり白い小さな光が消えた。 「…あ…」 同じ所をじっと見つめていたら、ゆっくり光って、また消えた。 ホタルは声を聞いて逃げるわけでもなかったけれど、思わずあきお姉ちゃんに聞こえるギリギリの小さな声で 「見つけた…!」 と呟いた。 今度こそそろりそろりと近付いて、ちょっと飛んだ所をつかまえた。 「とったよ!」 まだ小声のまま、あきお姉ちゃんの所へやっぱりそろりそろりと戻った。 指の隙間からゆっくりと光の点滅が漏れる。 「見せて」 あきお姉ちゃんも小声で話した。 逃げないかな、と思いながらそっとかぶせてあった左手を外すと、ホタルは静かに光っていた。 「綺麗ね…」 「うん」 それだけ言って、二人で手の中を見つめていた。 しばらくすると、ホタルは羽を広げて飛び去ってしまった。 手の中で光っていたのは三十秒か、もしかしたら十秒かもしれないけれど、 凄く長い時間に思えて、胸が一杯になった。 それからは見つけるのがずいぶん上手くなって、すぐに見つけられるようになった。 つかまえてはそろそろとあきお姉ちゃんの所へ連れて行って二人で見た。 そうしていると、 「悠ちゃん!」 と声がして、振り返ると少し離れた所に母が居た。 まだ帰りたくない、とあきお姉ちゃんを見上げたら 「駄目、もう帰らなきゃ」 と言われて、泣きそうになった。 「また明日ね」 と言われて、少し元気になった。 「バイバイ!」 と手を振って、振り返してもらって、母親の所へ戻った。 「何してたの?」 「ホタルつかまえてた」 と、少し自慢げに言った。 「そう、今日つかまえられて良かったね」 「なんで?」 「悠ちゃん、明日夕方に帰っちゃうでしょ」 そう言われて血の気がさっと引いた。 「ずっと居る!ここでずっと居る!」 「どうしたの、いつも五日で帰るじゃない」 そう言ってわめいたら、母は戸惑いながらも僕をいさめた。 「こっちの学校に通う!」 「ダメ」 「じゃああと1週間ここに居る!」 「ダメよ」 全部却下されて、ついに泣いた。 「悠ちゃん?悠平!」 走ってつまずいて、転びかけて、後ろ姿のあきお姉ちゃんに声を投げかけた。 「あきお姉ちゃん!」 叫んだら、驚いたように振り返った。 「明日、夕方、僕来るから、来て!」 あきお姉ちゃんはうなずかなかった。 次の日、ラジオ体操に行って、お兄ちゃんお姉ちゃん達に今日帰ると言った。 みんな残念がってくれて、最後にとっておきの場所に連れて行ってあげるとか、 僕の大好きな遊び、みんなでやろうとか言ってくれたけど、僕は断って竹やぶの前でじっと座っていた。 昼になると日陰が無くなって、日光が照りつけた。 お昼を食べなさいと母が呼びに来て、お昼をかき込んで外に行こうとすると、 「悠平!荷物の片付けしときなさい!」 言われて、自分のバッグに荷物を滅茶苦茶に放り込んで、また飛び出して竹やぶに行った。 少したって、竹やぶの前で日に焼かれながら座り続ける姿を見かねて、 母が麦わら帽子と蚊よけスプレーを持って来てくれた。 またしばらくたつと、田んぼに水を入れに来たじいちゃんがアイスを持って来てくれた。 「誰か待っちょんか?」 「…あきお姉ちゃん」 ぼそりと呟いたらもう一回聞き返してきたので大声で 「あきお姉ちゃん!」 と言ったら 「おなごか。大きぃなったなぁ」 と愉快そうに笑われて良く分からないが恥ずかしかった。 だんだん日が傾いてきた頃、当たりが出てしまったアイスの棒を手持ちぶさたにしていたら、 「悠平君」 と呼ばれた。 急いで顔を上げたら、すぐ近くにあきお姉ちゃんが立っていた。 昨日、おとといと同じ白いワンピースとサンダルで。 違うのは、肩の辺りに夕日が透けて見えたことと、足元や手先がうっすら透けていたことだ。 「…あきお姉ちゃん、すけてる…」 「うん…もうお盆も終わりだからね」 「今日、もうすぐ帰らなきゃ…」 そこの家に?という風にじいちゃんちを指したので、僕はふるふると首を振った。 「さいたまの」 と言うと、あきお姉ちゃんは淋しそうな顔をした。 「私も、行かなきゃ」 そう言って上を指差した。 その意味に気付いて泣き出した僕の隣に座って、ひんやりした手で頭をなでてくれた。 少しすると母が迎えに来て、 「ずっと一人居たの?」 と言ったので隣を見たら、 あきお姉ちゃんは笑いながらすうっと消えてしまった。 「…バイバイ」 僕はあきお姉ちゃんに言った。 次の年、僕の家は二世帯住宅になった。 じいちゃんと父母、僕と妹の5人家族になって、盆と正月の帰省ラッシュに巻き込まれなくて良くなった。 そして、ホタルはテレビの中だけのものに戻った。 じいちゃんのあの古臭い家は取り壊されて、巨大スーパーが出来たそうだ。 あの竹やぶも、もう無い。 でも、9年前のあの日々を僕は覚えてる。 忘れられない。 9歳のあの夏。 夢か現実かは知らないけれど、忘れられない日々だった。終